
二本松城跡は、中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡です。
築城は畠山満泰が応永21年(1414)にこの地に居を構えたとされます。天正14年(1586)に伊達政宗により畠山氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の奥州仕置以後は会津領に組み入れられ、蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封し、以後、二本松藩の居城として明治維新に至りました。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、中世から近世への築城技術の変遷を知ることができる重要な城跡として、平成19年7月26日、国史跡に指定されています。

二本松城跡は、阿武隈山系の裾野に位置する標高345mの白旗ケ峯を中心として、南・西・北を丘陵で囲まれ、東方がやや開口する自然の要害地形を利用して作られた中世及び近世の城跡です。二本松城跡の歴史は、古く畠山満泰が応永21年(1414)この地に居を構えたとされます。天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、以後、二本松藩の居城として明治維新に至りました。二本松市教育委員会の調査によって、本丸直下の平場で畠山氏時代の火災廃棄土坑や、近世会津支城時代の石垣が見つかり、また中世城館から近世城郭への大規模な改修が寛永4年(1627)~20年の加藤氏時代に行われていたことも判明しました。二本松城跡は東北地方を代表する近世城郭であり、中世城館から近世城郭への変貌もよくわかり、中世・近世の政治及び築城技術を知るうえで重要な城跡です。
二本松城跡 範囲および周辺図

史跡二本松城跡の追加指定
令和6年10月11日、史跡二本松城跡に藩校「敬学館」跡と内大手地区の範囲が追加指定されました。 平成19年(2007)の史跡指定後、指定地南東側平場の発掘調査で藩校敬学館に関連する建物跡と内大手門に関連すると考えられる石列と礎石が確認され、藩校跡(4,930.14㎡)と内大手地区(948.08㎡)合わせて5,878.22㎡が追加指定されました。 これにより、二本松城跡の史跡範囲は、既指定範囲と合わせて174,244.62㎡となりました。
敬学館は、文化14年(1817)九代藩主丹羽長富によって整備された藩校です。平成28年(2016)に行われた発掘調査で近世の建物跡が3棟確認されました。平場の東側で検出された建物1棟は焼土・炭化物を大量に含む土で覆われた東西17.2m 、南北8.7m を測る長方形のプランで、周辺からは同時代の灯明具が大量に出土しました。これらの焼土は、幕末の戊辰戦争により建物が焼失した痕跡とみられ、このように長大な建物で、燈明具を大量に使用する施設として“学校”を想定しました。
(藩校「敬学館」跡から出土した燈明具(『二本松城跡27』より抜粋)
平場の西側からは南北に長い玉石や割石を敷き並べた蔵跡と考えられる建物跡2棟(確認長6m ×13.4m 以上および確認長8.5m 以上)が並行して検出され、絵図に記載された藩校敷地内の“蔵”に相当すると判断しました。
(『二本松御城郭全図』の一部 丹羽家所蔵)
内大手地区では、東西に延びる2条の石列と3基の礎石が確認されました。北側の石列は確認長約5.3m 、南側の石列は確認長約5.6m を測ります。3基の礎石は、標高がほぼ揃っていることから一体の構造物を構成するものと考えられ、南側の石列と礎石の主軸が揃っていることから、同時代の遺構であることが確認されました。
(内大手地区から検出された3石列と礎石(『二本松城跡27』より抜粋)
追加指定された範囲は、当面は多目的広場・駐車場として利用し、将来的には駐車場を指定地外へ移設し、史跡としての整備を目指していきます。

藩校「敬学館」跡の現況

内大手地区の現況