\n"; ?> 二本松城跡│城跡の歴史
城跡の歴史(イメージ)

城跡の歴史

 二本松城跡の築城は、古く畠山満泰が応永21年(1414)に塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。天正14年(1586)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして二本松城は伊達の支城となりましたが、豊臣秀吉の奥州仕置以後、二本松は蒲生・上杉の支城として城代が置かれました。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封、城内の石垣等の修築を行うとともに城下町整備を行い、二本松藩の居城として明治維新に至りました。現在の二本松市街地の原型はこの近世二本松藩成立期の丹羽氏により形成されたもので、基本的には現況の町割と大きな差はありません。このように中世から近世にかけて奥州の要としての位置を占めた二本松城跡は、戊辰戦争においても重要な役割を果たしましたが、慶応4(1868)年7月、二本松少年隊の悲話を残して落城しました。その後、城跡には二本松製糸会社(後に双松舘)が明治6年に建設され、当地域における近代化に大きな役割を果たしました。

二本松城の歴史年表

年号 月日 事項
応永21 -1414   畠山氏4代満泰、塩沢の田地ケ岡より白旗ケ峯に居を移し二本松城と号す。(※築城は、嘉吉年間(1441~1443)の説もあり。)以来、持重・政国・村国・家泰・義国・義継・義綱と続く。
天正13 -1585 10. 8 粟ノ須(巣)の変により義継、伊達輝宗が戦死。
    10.15 伊達政宗、二本松城を攻めるも落とせず、小浜に退く。
天正14 -1586 7. 4 政宗、小浜城に重臣を集め二本松城明け渡しを談合し停戦条件を決める。
    7.16 二本松城自焼し、義綱(国王丸)は会津に逃れる。
    7.27 政宗、二本松城に入る。
    8.12 政宗、片倉小十郎景綱を二本松城に配置する。
    9.13 伊達成実城代となり、二本松城の整備に入る。
天正18 -1590 8月 豊臣秀吉、蒲生氏郷に会津領を与える。蒲生郷成、城代を命じられる。この年、検地奉行石田三成・浅野長政等が二本松城に滞在。
天正19 -1591 8. 6 豊臣秀次、秀吉の奥羽仕置の指令を受けて、二本松城に入る。同じ頃、徳川家康も下着する。
慶長3 -1598 3.24 上杉景勝、会津若松城に入部。二本松城代には、下条忠親(東城)、秋山定綱(西城)を配置する。
(8.18豊臣秀吉死去。)
慶長6 -1601 8月 蒲生秀行、会津若松城主となり9月26日に入部。二本松城代には、梅原弥左衛門(東城)、門屋助右衛門(西城)を配置する。
慶長17 -1612 5.14 蒲生秀行死去、嫡子忠郷が襲封。
寛永4 -1627 1.4 蒲生忠郷死去。
    2.1 加藤嘉明、会津城主となる。嘉明の女婿・松下重綱、二本松領5万石(安達郡46ケ村)を与えられる。
    10.2 重綱死去、嫡子長綱が襲封。翌年1月、3万石で三春城に移封。
寛永5 -1628 1月 三春城から加藤明利が入部、3万石(安達郡31ケ村)を与えられる。
寛永18 -1641 3.25 加藤明利死去、城下顕法寺に葬られる。以後、二本松領は代官支配。
寛永20 -1643 5月 幕府領となり、相馬義胤が在番として派遣される。
    8. 2 丹羽光重、10万700石で白河より入府。
慶応4 -1868 7.29 戊辰戦争により正午頃、落城。戦死者337名、うち数え年13~17歳の少年隊士14名含む。
明治6 -1873   機械製糸「二本松製糸会社」城内三の丸で操業開始。
明治19 -1886   二本松製糸会社解散、「双松館」に引き継がれる。(~大正14年閉鎖)
昭和10 -1935 12.24 「旧二本松藩戒石銘碑」国史跡に指定
昭和24 -1949   霞ヶ城公園が県立自然公園に指定
昭和30 -1955   「第1回にほんまつの菊人形」展開催
平成2 -1990   二本松城の学術調査開始
平成19 -2006 7.26 「二本松城跡」が国史跡に指定

歴代城主・城代一覧

領主 種別 氏名 在職期間
畠山 城主 満泰・(満盛)・持重・政国・村国・家泰・義氏・義国・義継・義綱 応永21年(1414)

天正14年(1586)7月
伊達政宗 城主 片倉景綱 天正14年(1586)7月~同14年9月
城主 伊達成実 天正14年(1586)9月~同18年(1590)6月
城代 石母田右衛門景頼 天正18年(1590)6月~同18年8月
城代 大條尾張守宗綱
城代 柴田但馬守宗義
蒲生氏郷 城代 蒲生源左衛門郷成 天正18年(1590)8月~慶長3年(1598)年3月
城代 町野左近助繁乃
城代 町野長門守幸和
上杉景勝 城代 秋山伊賀守定綱 慶長3年(1598)3月~同6年(1601)8月
城代 下條駿河守忠親
蒲生秀行 城代 梅原弥左衛門〔東城〕 慶長6年(1601)8月~寛永4年(1627)1月
蒲生忠郷 城代 本山豊前守安政〔東城〕
城代 本山河内守安行〔東城〕
城代 外池信濃守良重〔東城〕
城代 門屋助右衛門〔西城〕
城代 門屋但馬守〔西城〕
幕府領 在番 酒井右近太夫 寛永4年(1627)1月~同4年2月
在番 太田原備前守晴清
加藤嘉明 城主 松下重綱 寛永4年(1627)2月~同4年10月
加藤明成 城主 松下長綱 寛永4年(1627)10月~同5年(1628)5月
城主 加藤明利 寛永5年(1628)5月~同18年(1641)3月
代官支配 寛永18年(1641)3月~同20年(1643)5月
幕府領 在番 相馬義胤 寛永20年(1643)5月~同20年8月
丹羽 城主 丹羽光重 寛永20年(1643)8月~延宝7年(1679)4月
丹羽長次 延宝7年(1679)4月~元禄11年(1698)6月
丹羽長之 元禄11年(1698)6月~同13年(1700)12月
丹羽秀延 元禄14年(1701)2月~享保13年(1728)5月
丹羽高寛 享保13年(1728)6月~延享2年(1745)5月
丹羽高庸 延享2年(1745)5月~明和2年(1765)12月
丹羽長貴 明和3年(1766)1月~寛政8年(1796)3月
丹羽長祥 寛政8年(1796)5月~文化10年(1813)8月
丹羽長富 文化10年(1813)10月~安政5年(1858)10月
丹羽長国 安政5年(1858)10月~明治1年(1868)12月