\n"; ?> 二本松城跡│城跡内の文化財(中腹付近)
藩庁門付近(イメージ)

城跡内の文化財

中腹付近

「二本松藩士自刃之処」

二本松藩士自刃之処
 戊辰戦争の際に、当地で丹羽一学、服部久左衛門、丹羽新十郎の3人の藩士が自刃しました。

「少年隊の丘碑」「少年隊奮戦レリーフ」「少年隊追悼漢詩」

少年隊の丘碑
 新城舘と推定される平場です。戊辰戦争の際に犠牲となった二本松少年隊関係の記念碑が建立されています。

「智恵子抄詩碑」「牛石」

智恵子抄詩碑
 安達太良山が望める平場の露頭花崗岩に、高村光太郎の詩「樹下の二人」と「あどけない話」の一節の銅板レリーフが設置されています。詩人草野心平らの有志により昭和35年建立されたものです。この花崗岩には、二本松城築城にともなう“牛石”の伝説が伝えられています。

「土井晩翠詩碑“花ふゞき 霞が城の しろあとに 仰ぐあたゝら 峯のしら雪”」

土井晩翠の碑 会達製糸株式会社の社歌発表会に当地を訪れた土井晩翠が、二本松城跡で詠んだ歌です。

「日影の井戸」

日影の井戸
 本丸南側直下につくられた石組の井戸。各種絵図面に描かれています。石組の状況から寛永期には石積みにより整備されたものと思われます。

「とっくり井戸」

とっくり井戸
 本丸北東側直下につくられた石組の井戸。入口より内部がひろく、フラスコ状であることからこの名前が付いたとみられます。直径約0.9m、深さ約7.95mを測り、自然石による石積の様相から慶長期の遺構と考えられます。

「見晴台の二合田用水」

見晴台の二合田用水
 城内に流れる用水は初代藩主光重が、藩士山岡権右衛門の進言により、算学者磯村文蔵吉徳を召抱え、城跡の防備を目的として遠く安達太良山麓の大清水より約18kmにわたって引水した水路です。城跡西側のこの地で分水し、ひとつは城跡内中腹を横断し郭内へ、もうひとつは城跡内の回遊式庭園を構成する一要素として利用され、やはり郭内へと流れます。磯村が召抱えられた延宝年間(1673~1680)に工事が開始されたものと思われ、1700年には磯村が致仕していることから、この頃までにほぼ完成したと思われます。
 明治期には二本松の近代化を支えた工業として重要な二本松製糸工場(後に双松舘)に不可欠な用水を供給し、現在では城内庭園への引水のほか、市内各地の農業灌漑用水として重要な役割を果たしています。したがってその維持・管理のため、水路の大部分はコンクリート等で補強されてしまっていますが、路線は江戸時代のままであり、所々に江戸時代の面影を残す素掘りのV字谷や、石組、石敷きの水路などが残存し、さらに城内では庭園遺構として江戸期の様相をそのまま伝えている部分が多く観察されます。
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