二本松少年隊群像
二本松城跡箕輪門前[1996年(平成8)7月28日設置]
制作:橋本堅太郎[日本芸術院会員・日展彫刻家・二本松市名誉市民]
戊辰戦争―二本松の戦いにおいて、藩の兵力は仙台などの応援兵を合わせても僅かに約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人、徹底抗戦の末、1868年(慶応4・明治元年)7月29日正午前、ついに二本松城は炎上し、落城しました。
落城・敗戦は誰もが予想し得たことでしたが、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の守信玉砕戦は、他藩には見られない壮絶な最期でした。戦死・負傷者の数は記録によって違いがあり、1890年(明治23)に調製された「戦死姓名簿」によると、二本松藩の戦死者337人・負傷者71人でした。負傷者数が少ないのは自分を恥じて届出をしなかったためともいわれ、また他藩の戦死者は200人を超えたといいます。
旧二本松藩主丹羽家菩提所の大隣寺境内には、戊辰戦争殉難者の戦死群霊塔とともに、二本松少年隊隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守と、少年隊戦死者14人の供養塔が建立されています。明治維新の夜明け前に、愛する郷土そして家族を守るため、激戦の末に可憐な花を散らし、義に殉じた少年隊士を弔う参詣者の献花と香煙は、今なおその悲劇を伝えています。
「二本松少年隊」の命名
正式に編成され名が付けられた会津藩の少年16、17歳からなる「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍(討幕軍)が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名称はありませんでした。
1917年(大正6)9月15日、戊辰戦争後“賊軍”の汚名をかぶされ、ひたすら沈黙を通し続けてきた旧二本松藩士らにより戊辰戦没者の50回忌法要が、旧藩主丹羽家菩提所の大隣寺において盛大に行われました。
この時、二本松町の助役であり、戊辰戦争に木村銃太郎門下生として大壇口に14歳で出陣した水野好之(当時の名前は進)は、本文32ページほどの謄写版印刷した小冊子を作成し、参列者に配布しました。
表題は『二本松戊辰少年隊記』として、少年たちの服装や大壇口出陣の隊員名、激戦の様子などを回想記述したもので、この表題を基に、「二本松少年隊」と命名されたのです。そして、少年隊に対する公然的な顕彰が行われるきっかけともなりました。
出陣許可と「入れ年」制度
1868年(慶応4)5月1日、西軍が白河城を占拠、二本松藩兵の大半が西軍との白河城攻防に従事している間に、6月24日棚倉城落城。一方、6月16日いわき平潟港に西軍別隊が上陸 ⇒7月6日守山藩降伏 ⇒7月13日平城落城。
このような戦況の中、同盟の三春藩による西軍への寝返りの噂もあって、二本松藩は領境の郡山・笹川・糠沢、そして小野新町に藩兵を派遣し警固にあたりました。7月26日白河より進軍した板垣退助隊は三春城に無血入城、噂された三春藩の背信でした。
二本松領に急迫した西軍に対して、二本松城は空虚同然でした。この城兵不足が少年たち、そして一度隠居した老人までも出陣するという原因ともなりました。特に、出陣を嘆願する少年たちは「入れ年」制度という習慣を巧みに解釈したのです。
「入れ年」制度とは
二本松藩では成人としての扱いを受けるのは、数え年20歳でした。しかし、18歳になった時点で藩に成人した旨の届け出をすると、藩は番入り(兵籍に入ること)を命じる習慣がありました。つまり、2歳のさばを読むことを黙認することで、これを「入れ年」といい、二本松藩独特の制度でした。
7月上旬、藩は兵力不足のため17歳まで出陣を許可しました。「入れ年」をあてはめると15歳までの少年が対象となるものの、藩の許可と部隊への配属がなければ出陣することはできませんでした。しかし、少年たちの出陣嘆願は日増しに多くなり、砲術指南木村銃太郎の門下生たちも全員で相談して、銃太郎に出陣許可の取りなしを何回となく懇願したといいます。
7月27日、本宮が占拠されたことを受けて藩は15歳までを許可、「入れ年」にすると13歳までが対象となりました。兵力不足の実情と、2歳の差を黙認するという習慣がなだれ式に崩れ落ち、数々の悲劇を生む少年たちの出陣となったのでした。
出陣許可を得た少年たちの様子について、水野好之は前記の小冊子で「七月二十六日の朝、俄然余等(がぜんよら)に出陣の命下る。余等の満足例うるに物なし。」と述べ、また15歳の木滝幸三郎は、『二本松藩史』の中で「藩庁に対し数回嘆願せしに、二十七日に至り漸(ようや)く許可せられ雀躍(じゃくやく)して喜べり(こ踊りして喜ぶこと)。」と語っています。出陣許可の伝達の仕方によるものか、記憶の誤りによるものか、26日説と27日説があります。
少年隊士の数
『二本松戊辰少年隊記』には、銃手として25人が列記されていますが、この数は大壇口に出陣した隊長木村銃太郎門下生等に限られています。うち、戦死者は隊長、副隊長及び隊士13人(大壇口戦死者1名を含む)、負傷者1人と記述されています。
1926年(昭和元)に刊行された『二本松藩史』には、緊急によって確実な記録がないため、記載漏れや誤記があることを断った上で、51人が列記されています。また、戦死者は隊長と副隊長を除いて14人、負傷者3人となっています。
その後、郷土史家の平島郡三郎・青山正一・紺野庫治らにより調査研究が進められて59人に増え、さらに1940年(昭和15)には2人が追加され61人となりました。
その後も紺野の調査研究は続けられ、1981年(昭和56)に刊行された『絵でみる二本松少年隊』では1人が追加されて62人となり、隊長と副隊長を除く戦死者は14人のまま、負傷者は7人に増えています。
木村銃太郎肖像
(旧二本松藩お抱え絵師・大原文林筆)
※年齢:数え年 区分◎○:大壇口出陣者・うち◎は木村銃太郎門下生
※共に戦死